私は今でも、全くと言っていいほどフルートが吹きたくなくなるがある。

フルートが吹きたくないことが問題となってることの中身に「吹きたい」があると思う。

自分の中の音楽の可能性を感じていたり、音楽の喜びに触れていたいというような望みを持っている。

 

でもそれに、どこかでダメ出しをしている自分がいるから問題となっていく。

 

例えば、人と比べると自分は音楽家ではないなーと思ったり、なんでこんなに下手くそなんだ、とか、あんなに素敵に演奏できる人がるなら自分は演奏なんかしなくてもいいだろう、

とか、練習しなければならないのに、なんでこんなに疲れているんだろう。もう、練習したくない。とか。

 

やりたいけどやりたくないという葛藤を抱えてるわけだ。

 

海を見たいと思う。

そこで、君には海を見る資格はないと言われたとしたら、それを信じるだろうか?

 

そこに吹いている風を感じ磯の匂いを嗅ぎ海の水の温度を感じ水を味わうことは誰でもできる。

どんな人だって、海を見ることはできて誰かから止められるようなことではない。止められたとしても、

 

「そんなことはこちらの勝手でしょう!」 

 

と自信を持って言えるかな。海を見たくなければ、心おきなく見なくていい当たり前もある。

 

しかし、ここまでフルートを吹いてきた私にとって、フルートが吹きたくないというのは、問題になってしまう。

この事は私だけに起こったことかしら?

そうでもいいし、誰かが同じ問題を抱えていて共感してもらえても嬉しい。

 

今日は、

海に散歩に出かけるように音楽をやってみよう。

 

沢山の曲を吹いてきた中で

出会った自分だけの好きなフレーズを楽しむためだけにフルートケースを開けてワクワクしながらその音を鳴らしてみる。鳴らす前と鳴らした後でやっぱり、体に何か変化が起こってることを味わうこともできる。

誰ともそれをシェアする必要もなく誰の気分も良くしなくていけないような責任もない。

ただ、自分のためだけに美しい割れた貝殻の破片を拾い集めるように音楽を今日の自分は楽しんでみる。

 

いつの日か、誰かが、その貝殻が綺麗だなぁと、思ってくれるかもしれない。

もちろん誰も見向きもしなくてもいい、自分だけの素敵な時間を持つ事ができた時、音楽が自分のそばにある事に感謝できる。

 

この話を聞いて、何を言ってるかわからない人は素敵な音楽ライフを送れてることをお祝いしてあげて欲しい。

 

私たちは時々、練習しなかった事で、罪人扱いされる経験から、大事なことを忘れてしまうのかもしれない。悪いことに、それに従事しているのは自分自身だったりするから始末がわるい。

 

でも、厳しかった自分の意図は、こんな自分になって欲しいという親心だったのかもしれない。ありがとうの言葉と共にこれからは違う言葉で自分を励まして欲しいとお願いもできる。